いい日泡だち

思い出の書き換えです

きらきらナイフの先輩と、犬の佐々木メロディちゃん(後編)

youtu.be

 

 先輩と六年ぶりに会うことになった。よく晴れた夏の日だった。
 当日、仕事を定時であがったので外はまだ白けたように明るかった。東京駅の丸の内中央口の改札を抜けた。なんとなく風情があるという理由でそこを待ち合わせ場所に指定していたのだが、だだっ広いスペースは佇むには手持ち無沙汰で、待ち合わせには適さないことがすぐにわかった。予定の時間までまだだいぶあると思い、みどりの窓口に入りベンチに座った。そうして少し待つと、わたしに向かって手を振る影があった。同学年のトランペットのF君だった。彼とは幸いなことに卒業してからも親交が続いていて、定期的に会っているので特に気まずさはない。高校入学当初はどちらかというと小柄なほうだったはずだが、めきめき身長が伸びていった。それと同時に顔立ちもどこか日本人離れした様相へと変わり、レーシック手術を受けたためにもう眼鏡もかけていないので、あの頃とは全く別人みたいに見える。筋肉もついているので、米兵かISISの戦闘員みたいだ。
 
 F君とみどりの窓口でしばし待った。すると音を立ててキャリーケースを引きずる、同じく日本人離れした顔をしているが、F君ほどは身長が高くない人が現れた。彼は白のポロシャツを着て立っていた。先輩だった。眼鏡はもうかけていなかった。
 お久しぶりです、といったお決まりの挨拶もそこそこに、予約していたイタリアンのお店へ三人で向かった。幹事のわたしが迷ってしまい先輩が案内した。この間もこの辺りに来たのだと、丸の内オアゾを見ながら聞いた。まるで夢か演劇みたいに通りには人がいなかった。
 
 イタリアンのお店でビールやサラダ、パスタ、ピザなどをひとまず注文した。先輩はわたしたち二人が誘いに乗じたことへのお礼を言い、わたしたちは空路での移動をねぎらった。先輩は高校生だったころより10キロも太ってしまったのだと言った。なんとなく雰囲気が変わったと思ったのはだからか、と思った。10キロ太っていても先輩はまだ痩せ型のほうで、健康的に見えた。きっと筋肉が増えたんですね、とわたしは言った。
 ぽつりぽつりとお互いのことを話した。わたしは、代わりがいくらでもいるようなつまらない仕事をしていると言った。先輩は、医大インターンが終わってあとは国立試験なのだと話してくれた。何科の医者になるのか尋ねると、皮膚科だと言う。
 
インターンは外科だったんだけど、そこの医者に嫌われちゃったみたいでさー。相当きついこととか言われたさ」
 
先輩はストレスで白髪が増えてしまったと、顔をしかめて言った。言われてみれば確かに、年齢のわりには白髪が多いように見えた。白髪は居酒屋の照明を受けて、透き通ってかすかに光った。
 先輩は白髪だけでなく、生え際が後退してきたんじゃないかと気にしていて、前髪をかき上げて額を見せてくれた。つるりとした額のほうは全く無問題で、言われても全然わからなかった。
 わたしは別のことに気をとられていた。先輩ってこんなに訛っていたっけ。先輩は東京の小学校に通っていたからか、わたしの知る限りかなり都会的な印象の人だった。高校生の頃から、外套なんかも仕立てが良くきちんと見えるものを着ていた。へちま襟のニットの上着なんかを着ていたのだ。でもその先輩が語尾を「~さ」と変化させることが気になってしまう。なんだか不思議だった。おそらく変わったのは先輩ではなく、語尾を意図的に標準語に近づけようと努力してきたわたしのほうなんだろう。上京してからもう何年も経っているのだ。先輩は高校を卒業してからずっと北海道にいた。
 
 先輩もF君も痩せているので、二の腕が肘より細いという話をした。太りやすい人間にとっては、何ともうらやましい話だと思った。先輩は休みの日には自転車に乗って遠出をすることもあるらしく、しかし筋肉はそこまでつかないのだと言った。わたしは数年前、競技用のスーツみたいなものを着てヘルメットをかぶり、北海道の平原を疾走する先輩の写真をFacebookで見ていた。先輩はもうトランペットを吹いてはいなかった。
 
 あっという間に時間が経ち、ラストオーダーだと言われた。まだ話したりないと判断し、当然のように別の店に入った。和食がメインの居酒屋で、東京のホッケは小さくて食べ応えがないなどと話した。わたしが当時控えていたロンドン旅行の話などをしたり、先輩の今の彼女が東京にいるという話をしたり、高校の人たちが今何をしているかなど話した。そして先輩が言いづらそうにして言った。
 
「おれ全然いい先輩じゃなかったよね。ごめんね」
 
全く意外な発言だった。そんなことないです、とわたしたち二人は急いで否定した。先輩は素晴らしい先輩でした。先輩は、自分が常に焦っていて、冷たく接してしまったことを謝罪した。もうそれ以上は言わなくても大丈夫です、とわたしは思った。先輩は
 
「だって、○○(わたしのことである)なんて経験者だったから、トランペットずっとずっと上手だったでしょ」
 
と言った。全然そんなことなかった。わたしはずっとずっと下手くそだった。先輩は何を言っているんだ。わたしはほとんど泣き出してしまいそうだった。先輩は、自分は下手で周りは上手だった、というようなことを言った。そんなことはなかった。わたしたちのなかではいつだって先輩が一番上手だった。先輩はとてもトランペットが上手だったのだ。けれども先輩はわたしのことを褒め、F君のことを褒め、その日来られなかったK先輩のことをほめちぎった。Kくん先輩のトランペットは上手だったと言った。Kくんに会いたいなあ、と懐かしそうに目を細めた。
 
 先輩のなかでは、高校での部活の思い出は、たまに取り出して眺める、純度の高い結晶のようなものになっているらしかった。先輩はいつまでも懐かしがっていた。先輩の話す高校の部活の思い出は、苦痛に満ちたものではなく、トランペットを吹く楽しさに満ち溢れた素晴らしい期間として語られた。わたしたちはその思い出のなかでの愛すべきバイプレーヤーだった。わたしたちは知らず知らずのうちに、先輩の精神世界におけるメロディちゃん側にまわることができていたのだった。
 
 解散して帰り際先輩からLINEが来た。久しぶりに二人に会えて本当によかったと、先輩は繰り返しメッセージをくれた。お店の予約をしてくれてありがとう、またすぐに会おう、LINEは先輩からの純粋な感謝の言葉で溢れかえった。
 
「極上の時間だった」
 
少し陳腐なそのメッセージの直後に、号泣している絵文字がついていた。こんな日が来るとは思っていなかった。夢にも思わないというのはこのことだった。なんだか現実味がなかった。先輩の無事を祈ってわたしは帰宅した。
 
 
 
 先輩はもうナイフのような人ではなかった。外見の整った、健康で誰からも好かれそうな医学生になっていた。先輩は先輩自身が作り出した地獄からいち早く脱却し、親切ないい人になっていた。よかったな、と思った。そう思おうとした。もし先輩があのまま地獄の中にいたら、きっと死んでしまっただろう。先輩は飛びぬけて頭がよかったから、自分の力で幸せになるやり方を見つけたのだ。先輩が元気そうでよかった。きっといいお医者さんになるだろう。患者の痛みに寄り添うような。水虫の診断を出し、処方箋を書く先輩のことはあまり想像できなかった。しかしこれから似合うようになっていくんだろう。
 
 しかし同時に、先輩は死んでしまったんだと思った。わたしをあれほど怖がらせ、恐ろしい思いをさせた先輩はもうこの世のどこにもいなくなっていた。ナイフのような、何にも思っていないというような顔をして人を傷つけ、同時に自分も傷ついている先輩。あの苛々してばかりいる先輩に、もう会うことはできない。先輩は全く別人のようになって生まれ変わっていた。わたしがどうしようもなく駄目で、失敗ばかりをして、おどおどしているうちに。もう誰も怒ってくれないと思った。わたしはわたし自身によって別人にならなければならない。
 
 ただ恐ろしかった頃の先輩に会う方法が一つだけあって、それは睡眠をとることだ。わたしは未だに高校生の頃の部活の夢をよく見る。その夢は大抵悪夢だ。悪夢のなかでは悪魔のような先輩が、記憶そのものより格段にパワーアップした恐ろしさでわたしに怒る。苛立っている。その夢を見たときのわたしは、いつも汗をびっしょりかいて泣きながら起きる。もう二度とごめんだと思う。心の底から恐ろしい。わたしのなかの先輩はもはや恐怖そのもの、悪魔というより神様みたいな感じだ。崇高ですらある。だがたぶん本当は、昔もそこまで怖くなかったんだと思う。当時の他の部員に聞くと、わたしと先輩の仲は特別おかしなこともなく良好に見えていたそうで、確かに冗談を言って笑ったりすることもあったような気がする。今のわたしが勝手に怖かったような気になっているだけなのかもしれない。
 
 三人で再会した時、店員さんに写真を撮ってもらった。写真のなかの三人は、これっぽっちも笑っていなくて表情もかたく、見返すとなんだか笑ってしまう。その写真を見ると、やっぱり先輩はまだ怖い先輩のままで、わたしたち二人は怖がっているようにも思える。どちらにせよ昔がどうだったかはもはやどうでもよく、今とこれからどうしていきたいのかを考えたほうが建設的だ。わたしたちはまだ若いのだから定期的に会えばよいのだし、別の思い出を作ってもかまわない。今度はKくん先輩も一緒に会えるとよい。誰もトランペットを吹かなくなっても、わたしたちの人生はまだまだ続いていくし、わたしたちの関係も、連絡を取り合う限り終わりっこないのだ。

きらきらナイフの先輩と、犬の佐々木メロディちゃん(前編)

 
 記憶のなかの先輩は常に怒っている。苛立っている。彼はいつも何かに腹を立てていて、時には冷たく、軽蔑したように嘲笑う。そうしてくる日もくる日もトランペットを吹いている。雨の日も、吹雪の日も、期末テスト当日の朝も吹いている。トランペットを吹いている時の先輩は、全く楽しそうには見えない。けれども先輩は吹いている。何よりも、誰よりも自分自身に腹を立てながら。
 
 わたしが初めて先輩と会った時、先輩は三年の先輩と喧嘩していた。三年の先輩は小柄だけれどもおっぱいの大きい女の人で、お父さんがプロのトランペット奏者だった。娘である三年の先輩ものちに音大に行った。先輩と先輩の先輩は、昔はとても親しく、そう、まさに「親しくしていた」らしいが、その時は全くそうは見えなかった。先輩はののしっていた。わたしは怯えた。
 
 わたしと、中学生の頃は野球部だったという色が白くて眼鏡をかけた男の子がトランペットに加入した。三年生はおっぱいが大きくてトランペットが上手い女の人と、小柄で気さくでギャルっぽい女の人、話しても全く気づかないが、実はモンゴル人でとても長い名前を持っている明るい女の人だった。彼女たちは部の慣習でわたしたち一年生にあだ名をつけると、すぐに引退していった。
 
 二年生はいつも怒っている先輩と、優しいけれども気弱なオタクのKくん先輩、それにふわふわとした癖毛の女の先輩の三人だった。ふわふわとした癖毛の女の先輩はどこか悩ましげな様子で、練習中に失神したりしていた。そして夏を待たずに部活をやめた。
 トランペットは怖い先輩とオタクのKくん先輩と、初心者の男の子とわたしの四人になった。夏の時点で、トランペットを上手に吹ける人は一人もいなかった。そのことは先輩をますます苛々させた。
 
 ある時四人で「君が代」を吹いていた。体育会系の部活の壮行会で吹かされるからだ。君が代にハーモニーはない。四人であの単調で釈然としない音律をユニゾンで吹いていると先輩が我慢ならないという風に、中断させてこう言った。
 
「音痴がばれるね」
 
先輩は軽蔑しきったように鼻で笑った。誰が音痴だとは言わなかった。わたしは先輩の目が全く笑っていないことに気づいた。わたしはその日から、別に好きでもなかった「君が代」が嫌いになった。
 
 また別の日、わたしは音楽室のピアノを弾いていた。うろ覚えな「花のうた」を、同級生の前ででたらめに披露して笑っていた。すると先輩がわざわざ隣室からやって来て
 
「お願いだからそんな下手なピアノひかないでくれないかな?」
 
と言った。わたしは急いでピアノの蓋を閉め、なんてことはなかったかのように、同級生に話題をふった。ん?先輩?それより、モスの新しいバーガー食べに行こうよ!それからわたしは、二度と音楽室のピアノを弾いていない。
 
 先輩はとにかく怖い人であった。先輩は常に苛々していて、この世の全てを見下していた。傲慢だった。少なくともわたしにはそう見えた。だが、先輩にはそうする資格があると、皆がそう考えているような節があった。先輩は確かに怖かった。だがしかし、誰よりも自分に厳しかった。先輩はいつも何かに怒っていたが、一番怒っていたのは自分自身に向けてだった。思うようにトランペットを吹けない自分の不甲斐なさに、心底腹を立てていた。だから先輩は、朝も昼休みも帰りも、いつだってトランペットを吹いていた。そうして終始苛々していた。怒りながらトランペットを吹き、そのことでまた腹を立て、その怒りのエネルギーでまたトランペットを吹き苛立ちを募らせる永久機関、それが先輩だった。
 
 
 
 先輩は実は初心者だった。中学生の頃はバトミントン部で、トランペットを吹き始めて一年かそこらしか経っていなかった。トランペットは始める時期がすごく大切だと言われていて、一般的には早く始めれば早く始めるほど上手になりやすい。先輩はそれでも、初心者にしては吹けていたのでそれだけでも十分誇ってよかったはずだが、先輩は全然満足できないみたいだった。いくら練習しても上達の速度には限界がある。先輩はまるで、世界で一番トランペットが上手でないと満足いかないように見えた。それは時間との無謀な闘いだった。
 
 ある日の部活後、突然先輩に空き教室に呼び出された。先輩はしばらく言いづらそうにしていたが、吐き捨てるようにこう言った。
 
「俺とかKくんのことバカにしてるでしょ? こっちはわかってるんだから。お願いだからさ、態度にだけは出さないでよ」
 
先輩は怒りに震えながら言っていた。わたしはしばらく黙っていた。呆然としていた。ようやくのところで、はい、と小さく答え、逃げるように教室を飛び出し、そのまま走って家まで帰った。自分の部屋に逃げ込み、電気もつけずベッドに潜り込んだ。その日は夕食を食べられなかった。
 
 だがしかし、それは先輩の誤解以外の何物でもなかった。あまりにも先輩が怖くて目も見れなかったわたしを、先輩は自分が馬鹿にされているからそんな態度をとると思ったらしかった。だが、そんなことあるわけがなかった。わたしは確かに先輩のことを怖がっていたが、決して馬鹿になどしていなかった。むしろ敬っていた。すごい人だと思っていた。ここまで自分の心と身体を削ってまで、ひとつのことに打ち込めるなんて。トランペットが上手に吹けたところで、いい大学には入れない。プロを目指しでもしない限り、ほとんどの人には何も残らない。膨大な時間が苦しみと怒りに費やされて終わりだ。でも勉強も人間関係も全てを犠牲にして打ち込み、着実に上達していく先輩のことを、わたしはかっこいいと思っていたのだ。
 
 しばらく学校に行くのが嫌でたまらなかったが、時間がわたしを落ち着かせるにつれ、わたしはあることを徐々に理解した。先輩は、かわいそうな人なのではないかということだった。どうして先輩がここまで勝手に苦しんでいるのか、その理由はわからなかった。だがその苦しみや怒りといったマイナスの感情が、尽きることのないエネルギーになっていることはわかった。先輩はナイフみたいだと思った。周りを傷つけながら曲がり、折れ、砕けてばらばらになってしまう安物のナイフだ。無数の破片となる時、ナイフはあたりの光を受け、無数の乱反射を生むだろう。そしてあとには何も残らない。先輩は破滅の人であった。
 
 
 
 先輩は高校に入学して一番最初のテストで学年11位の成績をとったと聞いた。これは東大をはじめとする最難関大学を目指す人の順位だ。でも先輩はトランペットを吹くことだけに専念したかったのか、わたしが入部したころの二年生の時点では数学は追試になっていることがよくあった。その時はあんまり成績はよくないみたいだった。でも頭の回転は早くて、知識も豊富で、ふとした会話の端々からもそれはわかった。
 
 先輩は命を燃やしてトランペットを吹いていたからめきめき上手くなっていって、傍目から見てもそれはわかったのだが、同時にだんだんと痩せていった。顔色も良くなかった。
 ここの音程が合っていないよ、そう楽譜を指差す手があまりにも震えていてわたしは息をのんでしまった。どこの音程が合っていないのか推測するほかなかった。節分の日、豆まきの豆を、部員の手から手へと渡していた。先輩の指先は尋常じゃなく震えていて、いくつもの豆が床に散らばっていった。先輩はとにかく、何かしら大丈夫じゃない様子だった。
 
 
 
 先輩の険しい顔を一瞬だけゆるませることのできる存在がいた。それはダックスフンドのメロディちゃんで、彼女は先輩の携帯の待ち受けになっていた。わたしからしてみれば、どこにでもいる一匹の茶色いダックスフンドに過ぎなかった。しかし先輩にとっては唯一とも言える癒しのようで、目に入れても痛くないほどかわいがっていた。どれほど苛々していてもメロディちゃんの話になると、こぼれ落ちんばかりの瞳は潤み、頬はゆるむのだった。メロディちゃんと名付けたのも幼き日の先輩だった。先輩の精神世界のなかでは、苦しみを生むトランペットや追試や顧問や三年の先輩がいて、反対側には巨大なメロディちゃんがいる。わたしはたぶんその世界にはいないなと思った。Kくん先輩も同学年の男の子もたぶんいないなと思った。わたしたちは確実に犬以下であった。
 
 
 
 先輩の引退の日が来た。先輩は気がついた時にはとても上手になっていて、もはや彼が高校にはいってからトランペットを始めた人だとは、誰にも気づかれないくらいになっていた。不思議なことに、気弱だったKくん先輩も引きずられるようにトランペットが上手くなっていた。Kくん先輩にもKくん先輩の闘いがきっとあった。Kくん先輩は怒っているところを見たことがないくらい優しい人だったが、彼もまた人知れず闘っていた。Kくん先輩もまたその闘いに勝利した結果、本来出すべき実力を発揮できたんだろう。
 最後の演奏会が終わり、コンサートホールの前でトランペットの四人で集まった。外はもう真っ暗で、お互いの顔もよく見えないくらいだったが、先輩が号泣していることはわかった。先輩は呼吸困難を起こしそうなほど泣いていて、大粒の涙を流しながら何度もありがとう、ありがとう、と言ってKくん先輩と握手をしていた。Kくん先輩も目を真っ赤にしながらそれにこたえていた。わたしは目の前で何度も固い握手が交わされるのを見た。記憶のなかでその時間は、切れ目がなくて始まりも終わりもなく、まるで永遠そのものみたいに思える。わたしはいまだにあの時のまま、二人はコンサートホール前の暗闇で泣きながら握手をしているのではないかと、いまだにそう疑ってしまうのだ。
 
 先輩がいなくなってわたしもまた先輩になった。後輩には歌うみたいにトランペットを吹くことのできるとても上手な男の子が二人はいった。わたしともう一人の男の子は、結局一年たっても後輩より上手になれなかった。わたしたちが引退してさらに後輩に、トランペットがさらに上手な子がはいった。わたしたちの後輩とそのまた後輩は、いまだに仲が良く遊んでいるらしい。わたしはいい後輩にもいい先輩にもなれなかった。先輩は一浪したあと、北海道のちょうど真ん中あたりにある大学の医学部に合格したと聞いた。
 
 

 

 八年の月日があっという間に流れた。怖がってばかりいた一年に比べたら、一瞬みたいなものであった。ある日、先輩から突然連絡が来た。わたしと、もう一人の男の子と、三人で東京で会えないかと。

 

(後編に続く)

岩見沢市のサラギーナ

youtu.be

 

 貴方はサラギーナを知っているか。サラギーナとは、名監督フェデリコ・フェリーニがその人生を振り返った墓標的名作「8 1/2」に登場する狂女である。海岸に住む中年の乞食女で、おそらく売春婦でもある。豊満な身体に黒いドレスをまとい、爆発したかのような頭も気にせず、砂浜でステップを踏む。そして、どうだ、とでも言うようにぎょろりと目を剥く。魅力的な女性が多数登場する同映画においても、サラギーナは圧倒的な存在感を示し、幼い頃の主人公に強烈な記憶を焼き付ける。

  

 はじめて「8 1/2」のサラギーナを観たときわたしは、ババちゃんだ、と思った。そっくりだと思った。ババちゃんとはわたしの祖母。母の母だ。
 祖母は、孫であるわたしが遊びに行くといつも笑顔で迎えてくれて、砂糖と醤油が多めに使われた甘じょっぱい田舎料理でもてなしてくれた。わたしにとっては理想的な優しいおばあちゃんだ。
祖母は岩見沢市に住んでいる。曽祖母が亡くなったり曽祖父が亡くなったり、犬が死んだりまた新しい犬が来たり、子犬が産まれてすぐにもらわれていったり、犬が脱走したり、また新しい犬が来たりして家族の総数には変動があった。しかし祖母が岩見沢市に住んでいるということは変わらなかった。祖母はずっと岩見沢市にいた。しかし昔はそうでなかったらしい。

 

 ある夏休みの夜、祖父母と母と叔母と妹でトランプをしていた。誰もわざと列を止めることをしない、博愛精神に満ちた七並べを何度かした。基本の柱が七から八、八から九、そうしてキングまで行った時、おばが会話のなかで言った。ババちゃんはダンスが得意だからね。わたしと妹は初耳だったので驚き、祖母に踊るようせがんだ。ババちゃん、ダンスして!祖母は照れながらもやにわに立ち上がり、絨毯の上でステップを踏んだ。ルンバ!その身のこなしが、どれほど滑らかだったことか。祖母は肥満ぎみの身体をものともせず踊った。全く意外であった。祖母はお茶目でどこか天然なところがあった。外で食品を解凍しようとしてカラスと喧嘩になったり、祖父が作った木の椅子に生えたきのこを味噌汁にして食べてしまうような人だった。だから、まさかそんな祖母がルンバを踊ることができるとは、思いもよらなかったのだ。あまりのことに二人の孫が言葉を失ったのを見て気を良くした祖母は、マンボやチャチャチャといったラテンのステップを次から次へと繰り出した。若い頃は隣町に住んでいて、そこにあったダンスホールに夜な夜な繰り出したのだと、祖母ははにかんで言った。

 

 祖母はその後めったに踊らなかったが、かと言って全く踊らなかったわけではなかった。わたしはしばらく見なかったが、祖父母とおばで行ったシンガポール旅行で、ホテルのダンスホールでも、かつて磨きあげた自慢のステップを披露していたらしい。日本人じゃないみたいだった、とおばは言っていた。シンガポールにいてなお、祖母はその華麗なステップで、ダンスホールに馴染んでいたようだ。

 

 祖母はどこか器用で、暮らしを彩る芸術的なセンスみたいなものを持っていた。蔦谷喜一風の絵をボールペンでささっと描く。リカちゃん人形に祖母の寝間着とおそろいの稲穂柄のドレスを着せる。朝十時にはきまって牛乳を出してくれた。ごはんは美味しかったし、掃除も行き届いていた。ただ、母親からの印象は少し違っているようで、

「高校生の頃、お弁当箱をあけたら、おかずが全部いちごだったことがあったの。しょうがないから蓋でかくして食べたわ」

 他にも、ある日学校から帰ると前触れもなく家にエレクトーンがあり、習うことになったという話も教えてくれた。祖母は天然というか、エキセントリックの度を超えていて、どこか狂気を感じさせるようなエピソードのある人だ。

 

 近頃、そんな祖母の記憶が怪しい。普通に会話しているぶんには問題がなく見えるのだが、近い将来の予定を覚えていられなくなった。昔から物忘れはあったが、天然とかエキセントリックという言葉では片付けられなくなった。

 

 例えば最近こんなことがあった。わたしの父が高校の同窓会に出席することになった。父の母校は父の実家よりも母の実家のほうに近いので、父は同窓会の日、母の実家に泊まることになった。母が祖母に事前に電話をしておいた。当日、同窓会を終えた父が母の実家に行った。祖父母の驚いた顔。全く聞き覚えがないという。とりあえずその日はそのまま泊まることができたのでよかったが、双方に釈然としない気持ちが残った。祖父母はもう何年も、予定は決まった時点で居間に飾られた大きなカレンダーに書き入れていたはずだった。しかしその日の予定は真っ白だった。

 

 祖父母は二人とも億劫がってあまり外出したがらない。祖父は心臓が悪く、祖母は腰を痛めているからだ。だがある日、みんなで日本ハムファイターズの試合について話をしていた時、祖母が行ってみたいと言った。母とおばは張り切って、チケットも予約をして、後日祖母に伝えた。しかし祖母は、行きたいなんてことを言った覚えはないと言う。確かに言ったと伝えても、祖母はそもそも日本ハムファイターズの話をしたことすら覚えていない。自分は知らないと、怪訝な顔つきになってしまう。

 

 だから先日の帰省の折、わたしには特殊ミッションが与えられた。まずは母親とおばと妹と四人で、日本ハムファイターズの試合を観る。心ゆくまで楽しむ。そうして翌日、祖父母に会った時、いかに試合が楽しかったかを話す。そして以下の指定の文言をそれとなく尋ねるのだ。

「次にババちゃんが、みんなと野球を見に行くのは、いつだっけ?」

母はお願いねと、わたしから尋ねるよう繰り返し何度も念を押した。

 

 野球を見た翌日、祖父母の家に寄ってから祖父母と父とおばとファミレスに行った。祖父は免許を返納したこともあり昼からビールを注文し、寿司セットとともにぐびりとやった。祖母は寿司と蕎麦と茶碗蒸しのセットを頼んだ。わたしは寿司と小うどんのセットを注文した。小さな天ぷらもついていた。食べながら東京での仕事の話などをした。仕事のことを話してもわからないだろうと思い、細かいことは省いて事務職だと言った。そもそもわたし自身も自分の仕事のことをよくわかっていないから、これでいいのだ。

 

 祖母は何を話しても、そうかいうかいと笑い、もう食べられないからとお寿司をくれた。蕎麦をくれた。茶碗蒸しをくれた。比較的食べる人だったはずの祖父も、茶碗蒸しをくれた。好きだったはずのものが食べられなくなることが、二人の老いそのもののように思えた。わたしは気にするということをしたくなかったのでわざと喜んで食べた。わたしが喜んで食べることで、孫が喜ぶからあげるという構図が生まれる。そうすれば、二人がすでにあまり食べられなくなっていることから目を背けられるのではないかと思った。成長期をとうの昔に過ぎているわたしは、十分すぎるほど満腹した。

 

 食事が完全に終わるまでにわたしは、肝心のミッションの文言を話さなければならなかった。しかし切り出すことができない。わたしはほとほと弱った。じとりと嫌な汗をかいた。東京の夏の暑さの話をして、それに比べて北海道の夏はからっとしていて良いなどと言った。北海道のことを褒めた。ごはんも北海道のほうが美味しいよ。何もかもこっちのほうがいいよ。

 

 見かねたおばが助け船を出した。昨日札幌ドームに行ったこと。四人で並んで日本ハムファイターズ西武ライオンズ戦を観戦したこと。食い気味でわたしも加わった。始球式のゲストは大関豪栄道で、浴衣姿で投げたボールがキャッチャーの頭上を山なりに大きく越えたこと。試合開始早々に、怪我から復活しつつある大谷のタイムリーヒット。さらには中田の2ランホームラン。今シーズンでは珍しい、日本ハムファイターズの圧倒的な勝利。メンドーサのヒーローインタビュー。大きなディスプレイに映った彼の息子がどれだけ可愛らしかったか。勇んで助け船に乗り込んだので、少々船がぐらついたかもしれなかった。しかしそのまま本題に切り込んだ。

「今度みんなでドームに日ハム観にいくんだってね。いいね。楽しみだね。楽しんできてね。きっと楽しいね」

 祖母は少し怪訝な顔つきだった。祖父は寿司をつついていた。おばがフォローをいれた。札幌ドームは広くて、車イスのおばあちゃんも、揃いのユニフォームを着て応援していたと。わたしも楽しそうなその人を目にしていた。祖父母も楽しそうにしてほしいと思った。
祖母はそんなこと言ったかしら、と言った。その言葉は否定もされず宙に浮いた。あなたは再来月、札幌ドームに日本ハムファイターズを観ることになっていると、祖母にそれだけを告げてわたしの役目は終了した。

 

 きっと祖母の記憶は失われつつある。まだ初期段階であるとは思う。日常生活に不便をきたしているわけではないから。
 だがいずれ、祖母は全てを忘れてしまうのだろうか。サラギーナがダンスを踊る際に蹴散らされた砂粒のように、祖母の記憶はこぼれ落ちて、どこかへ行ってしまうのだろうか。

 

 祖母は苦労人だ。成人するまでに兄が二人亡くなっている。実家が豆腐屋で、同じ豆腐屋なら楽だろうと見合いをして、来てみれば嫁ぎ先の豆腐屋は廃業していた。夫は本州の土建屋にいて会うことも少なかった。姑は厳しかった。曽祖父と曽祖母は数年寝たきりになったから、祖母は毎日介護をしていた。祖母の父が亡くなって、祖母の弟と諍いになった。疎遠になって少しして、祖母の弟は癌で亡くなった。案内は来ず、祖母は弟の葬式に出られなかった。

 

 けれどもここ十年あまり、祖父母は毎年のように海外旅行に行っていた。中国にフランスにエジプト。一番話をよく聞いたのはハワイ。今までの苦労が報われたのだ。旅行の話をしている祖母は、心底楽しそうだった。
 異国の行く先々で、祖母は祖母の姉の遺骨を少しずつ撒いていた。いい話なのかそうでもないのか、今のわたしには判別がつかない。だがしかし、クフ王のピラミッドを前に砂漠で散骨する祖母を想像すると、わたしは心から好きだと思う。

 

 祖母は帰り際、ささげの煮物をどっさりとわたしに渡した。わたしの妹が食べたいと言っていたから作ったと言う。日本ハムファイターズを観に行く約束をしたその日に、妹がそう言ったのだ。その記憶は残ったんだなと思う。覚えていてくれてよかった。できることなら全て覚えていてほしいが、無理なら楽しかった思い出だけでもいい。まだまだこれからではないのか。

 

 わたしは祖母のダンスがまた見たい。キレのあるあのステップ。滑らかな身のこなし。八十年生きてきた祖母のダンスが、わたしは今とても見たい。

モハメド・アブダビ・アブダラさん(仮名)のこと

 モハメドアブダビ・アブダラさん(仮名。以下、モハメドさんとする)は、わたしが話したことのある唯一のスーダン人である。
 
 小学生だった頃、わたしは北国のさびれた港町に住んでいた。あきそうもないシャッターが並ぶ商店街には、大抵いつもしょっぱい匂いのする海風が吹いていた。冷たい風が降った雪もすぐに吹き飛ばしてしまうような、そんなさびれた町だった。自分はその町で、そこそこ退屈でそこそこ楽しい小学校生活を送っていた。
 
 春も終わり六年生だということにも慣れてきたある日、担任の先生が
 
「今度の総合の授業にはゲストを呼びます」
 
と言った。なんでもゲストは近くの工業大学に通う留学生だという。
 
「何人ですか?」
 
質問が出た。先生は答えた。
 
スーダン人です」
 
教室がざわついた。スーダンってどこ?そもそも外国だって、アメリカとかフランスくらいしかわからない。去年のワールドカップは韓国と一緒にやったみたいだけど、韓国人と中国人の見分けもつかない。
先生は、スーダンはアフリカなので、今度来るのは肌の黒い、いわゆる「黒人」なのだというようなことを言った。スーダンはあまり豊かな国ではないということも言った。自分は、アフリカの黒人とアメリカの黒人にどこか違いはあるのだろうかと思った。
 
 意外と早く当日は来た。身の丈190センチはあろうかという痩せた黒人が、ドアの上の枠にぶつからないよう、遠慮がちに身をかがめながら教室にはいってきた。彼は白い薄手のネグリジェのような服を着て、頭にターバンを巻いていた。
 
「はじめまして。モハメドアブダビ・アブダラ(仮名)です」
 
 モハメドさんは流暢に挨拶した。黒人だと聞いていたので、当時流行っていたエディ・マーフィーのような人が、マサイ族みたいな格好をして出てくると思っていた。しかしモハメドさんはエディ・マーフィーには全く似ていなかった。鼻がとても高かったからだ。肌こそ真っ黒でターバンからはみ出た髪の毛も細かく縮れていたが、わたしが思い描いていた顔とは違っていた。モハメドさんは小顔で、鼻がスッととがっていて優しげな顔立ちをしていた。全身に筋肉も脂肪も最低限しかついていなくて、脚が信じられないほど長かった。モデル体型だった。極東の北国の港町には、絶対にいない体型だ。
 
 先生がモハメドさんについてと授業の段取りについて説明していたが、全く耳に入ってこなかった。わたしはモハメドさんをじろじろ見てしまっていた。アラビアンナイトの世界から抜け出したみたいな民族衣装。思えば顔立ちだけ少しアラブっぽい。肌の色や体型はアフリカなのに顔だけアラブ。わたしは、黒人全員がエディ・マーフィーみたいな顔じゃないんだなという気づきを得た。
 
 モハメドさんは民族衣装のまま、持参してきたパソコンを開いた。ミスマッチだなと思った。パワーポイントのスライドはテンプレートを使っておらず、フォントはゴシック体だった。子ども心にもなんだかしょぼいなと思った。そのやけに画面に空白の多いしょぼいスライドで、モハメドさんによるスーダンの紹介が始まった。場所はエジプトの下。人口は日本の1/4くらい。国民にはイスラム教徒が多い。モハメドさんもまたそうで、日に四回のお祈りは欠かさない。
 
スーダンの名産はなんだと思いますか?」
 
開始早々にクイズが始まる。次々に手が挙がり、牛とかライオンとかバナナとか言っていた。しかし正解は出ない。
 
「正解は、『アラビアガム』です」
 
なんだそれ、絶対に当たるわけないじゃん。難問すぎる。アラビアガム食品添加物としてお菓子に使われたり、薬のコーディングに使われたりするらしい。カラフルなガムと薬のカプセルの画像がそっけなく挿入されたスライド。それが入れ替わると、広大な砂漠にポツンと立っている小さな干からびた木の画像になった。
 
「これがアラビアガムの元になる木です」
 
ハメドさんが言うには、アラビアガムは木の樹液が原料だ。砂漠にわざわざ出かけて、手作業でとっている。一つの木からそれほどとれなくて、とりすぎると枯れてしまうらしい。なんだその名産、と思った。そのまま食べても腹の足しに全くならなさそうな樹液が名産の国。子ども心に、とんでもなく貧しいような、大変な国なような気がした。そんな国から来たモハメドさんは、想像もつかないような苦労を今までしてきたんだろう。すごく痩せているけど、ちゃんと食べているのか。
 
 入れ替わった新しいスライドには、モハメドさんの家と家族が写っていた。大きな部屋に敷かれた絨毯に座り込む人たちは、すでに十人以上いた。
 
「男と女で別れて暮らしています」
 
お父さんには奥さんが何人もいて、兄弟もたくさんいて、大家族らしかった。話を聞くに、モハメドさんちはどうやらお金持ちのようだった。家は広くて部屋も数え切れないほどあるとのこと。ちょっとひいてしまったが、考えてみれば、お金持ちじゃないとわざわざ日本まで留学に来られない。この町の誰よりもお金持ちなんじゃないかと思った。貧しい国から来た大金持ち、という予想のしなかった存在に、理解が追いつかず混乱した。いわゆる"いいとこのお坊ちゃん"なのに、心配してかえって失礼だったのでは?わたしは申し訳なくなった。
 
「写真を見ていると、家族に会いたくなります」
 
ハメドさんはしんみりしてそう言った。なかなか帰れる距離じゃないから、家族にはもう何年も会っていないのだという。さみしそうな横顔を見ていたら、お金持ちだと聞いて遠く感じていたモハメドさんが、急に近く感じられた。外国人だし、貧しい国出身だし、大金持ち。わたしとは全く違う境遇のモハメドさん。でも家族が恋しくなる気持ちは小学生にも想像できた。モハメドさん、さみしいのか。
 
 最後にモハメドさんが、スーダンの未来について話した。
 
スーダンにはピラミッドもある。エジプトよりも数は多いくらいです。ゆくゆくは観光もできるようになるといい。昔は内戦があって遺跡には近づけなかったけど、これからにかかっている。
 自分も日本で勉強したことをスーダンに帰って活かしたい。スーダンをもっと豊かな国にしたい」
 
 だいたいそんなような内容のことを言って発表は終わった。わたしは驚いていた。そもそも外国に来て勉強するというだけで勇気がいるのに、それを自分の国に活かしたいだなんて。そんな偉い人がなんで東大とかじゃなくて、こんな辺鄙な人口十万人の町に来たんだろう。違和感はあったが、その辺りはまあ、それなりに色々な理由があるんだろうと考えた。子どもには到底考えつかないような。わたしの目にはとにかく、モハメドさんがそれなりにかっこよく見えた。
 
 発表のあとは、懇親の一環としてドッヂボールをやることになっていたので、クラス全員でだらだらと体育館に向かった。少し遅れて、民族衣装から私服に着替えたモハメドさんが体育館に現れた。モハメドさんの私服は、グレーのシャツに細いストライプの黒のスラックス。民族衣装に隠れていた脚の長さが際立って、やっぱり同じ人間だとは思えなかった。
 
 ドッヂボールが始まった。運動神経のよい子たちが勢いよく投げあい、いつものような盛り上がりを見せている。しかし普段とは違うある種の緊張感があった。みんな、モハメドさんが透明になってしまったかのように振舞っていた。決してボールを当てようとしないのだ。モハメドさんの実力は未知数。お客さんだし、と遠慮しているようでもあった。
 
 ついにお調子者の男子がモハメドさんに向かってボールを投げた。お調子者の男子は、クラスでもかなり運動神経がいいほうで、ドッヂボールでもいつも活躍していた。彼に投げられたボールは、地面と平行に無回転でモハメドさんを真正面から狙う。
 だがしかし、モハメドさんはボールを両手でしっかりと受け止めた。そして、なんてことなさそうに片手でボールを勢いよく投げ返した。ボールはうねりをあげて右曲がりの放物線を描きながら、お調子者の男子に直撃した。体育館に大きな音が響いた。お調子者の男子は肩をおさえ、反対側のコートの外野へと向かった。きまり悪そうに笑っていたが、よっぽど痛かったのか顔がゆがんでいた。
 
 その後はクラスみんなによるモハメドさんへの集中攻撃となった。一様に笑いながら、しかし真剣にモハメドさんを狙う。だがどんなボールもひょいとかわされてしまう。モハメドさんは白い歯を見せて笑いながら、コートを縦横無尽に駆けていた。クラスの精鋭たちが、揃いも揃ってモハメドさんを狙っていた。チームの区別はもはやないに等しかった。いまだ内野にいたわたしは、とんでもないことになったと怯えながらそれを見ていた。
 
 四方八方から飛んでくる凄まじい勢いのボール。避けようとしたその時、額が何かにぶつかった。目を開けると、それはモハメドさんの腰だった。すみません、すみませんと急いで謝ると、モハメドさんは
 
「ごめんなさい。大丈夫?」
 
と小さな声で尋ねた。先ほどまでの無双っぷりが嘘のように弱気そうだった。はい、とどうにか答えたところで、モハメドさんの脚にボールが当たった。いい勝負だったのに、わたしのせいでモハメドさんは負けてしまった。わたしはひどく気まずい気持ちを味わったが、モハメドさんは素直に外野に向かった。ふっきれたような、なんてことない表情だった。そのあとすぐわたしにもボールがぶち当たり、外野に移動しているうちに笛が鳴りゲームセットになった。
 
  てっきりモハメドさんも一緒に給食を食べるものだと思っていたが、もう帰ってしまったらしい。今考えてみると、もしかしたらハラルに配慮したのかもしれない。給食を食べながらみんなでモハメドさんの話をした。脚長い。ドッヂボール強すぎだろ。頭ぶつけそうだったね。そんな話をしていた。おませな女の子が
 
「モハメドさんの香水、ブルガリだったね」
 
と言った。なんでこの子はそんなことがわかるんだろうと、乾いたコッペパンを味の薄いシチューのようなものに浸して食べながらわたしは思ったことを、なぜかいまだに忘れられずにいる。
 
 あれからもう15年ちかく経った。今、モハメドさんがどうしているのか、全く知らない。スーダンに帰ったのだろうか。留学中に勉強したことを元に、エンジニアとして活躍しているんだろうか。今はおそらく40歳くらいだから、子どもがいてもおかしくない。奥さん、何人いるんだろう。
 スーダン人はみんな鼻が高くてアラブっぽい顔立ちなんだろうと思っていたが、「スーダン人」というキーワードで画像検索をしてみた結果、別にそういうわけではないらしい。エディ・マーフィーみたいなスーダン人もどこかにいるのかもしれない。たまたまモハメドさんの鼻が高いだけだった。たまたまモハメドさんの脚が長く、たまたまドッヂボールが上手で、たまたま北国に来て、真面目に勉強をしていたのだ。祖国のために。けれどもわたしは、スーダン人はモハメドさんにしか会ったことがないから、なんだかスーダン人はみんな、はにかみ屋で、真面目で、優しい愛すべき人たちに思えてしまう。だからニュースでスーダンの戦争の様子が映ると、心が痛む。モハメドさんち大丈夫かなと思う。北のほうに住んでいる?それとも南のほう?と思い心がざわつく。かといって何か行動を起こすわけではないので、全く勝手な話ではあるが。
 
 あの総合の授業をきっかけに、例えばわたしが海外ボランティアになるか、それか自衛隊に入隊し、スーダンのために何かしていたらいい話だなと思う。お恥ずかしながら決してそんなことはなく、スーダンに行く予定もない。なんとなくスーダンに親しみが湧いているだけである。でもあの日モハメドさんが小学校に来て、わたしに強烈な印象を残さなければ、わたしはスーダンという国をこれほど知るよしもなかった。当時はスーダン人と話せた!と喜び、親にも「モハメドさんと話したさ!」などと自慢したものだが、思い返してみると会話と呼べるかどうかも怪しい。でもわたしは確かにモハメドさんと話したんだとその時は思った。親切にされて嬉しかったし、いい人だなと思った。あの日総合の時間にモハメドさんが来てくれてよかった。
 

 

 どこにいるかわからないモハメドさんとその家族。どうかご無事で、幸せでいてほしいと願う。