いい日泡だち

思い出の書き換えです

岩見沢市のサラギーナ

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 貴方はサラギーナを知っているか。サラギーナとは、名監督フェデリコ・フェリーニがその人生を振り返った墓標的名作「8 1/2」に登場する狂女である。海岸に住む中年の乞食女で、おそらく売春婦でもある。豊満な身体に黒いドレスをまとい、爆発したかのような頭も気にせず、砂浜でステップを踏む。そして、どうだ、とでも言うようにぎょろりと目を剥く。魅力的な女性が多数登場する同映画においても、サラギーナは圧倒的な存在感を示し、幼い頃の主人公に強烈な記憶を焼き付ける。

  

 はじめて「8 1/2」のサラギーナを観たときわたしは、ババちゃんだ、と思った。そっくりだと思った。ババちゃんとはわたしの祖母。母の母だ。
 祖母は、孫であるわたしが遊びに行くといつも笑顔で迎えてくれて、砂糖と醤油が多めに使われた甘じょっぱい田舎料理でもてなしてくれた。わたしにとっては理想的な優しいおばあちゃんだ。
祖母は岩見沢市に住んでいる。曽祖母が亡くなったり曽祖父が亡くなったり、犬が死んだりまた新しい犬が来たり、子犬が産まれてすぐにもらわれていったり、犬が脱走したり、また新しい犬が来たりして家族の総数には変動があった。しかし祖母が岩見沢市に住んでいるということは変わらなかった。祖母はずっと岩見沢市にいた。しかし昔はそうでなかったらしい。

 

 ある夏休みの夜、祖父母と母と叔母と妹でトランプをしていた。誰もわざと列を止めることをしない、博愛精神に満ちた七並べを何度かした。基本の柱が七から八、八から九、そうしてキングまで行った時、おばが会話のなかで言った。ババちゃんはダンスが得意だからね。わたしと妹は初耳だったので驚き、祖母に踊るようせがんだ。ババちゃん、ダンスして!祖母は照れながらもやにわに立ち上がり、絨毯の上でステップを踏んだ。ルンバ!その身のこなしが、どれほど滑らかだったことか。祖母は肥満ぎみの身体をものともせず踊った。全く意外であった。祖母はお茶目でどこか天然なところがあった。外で食品を解凍しようとしてカラスと喧嘩になったり、祖父が作った木の椅子に生えたきのこを味噌汁にして食べてしまうような人だった。だから、まさかそんな祖母がルンバを踊ることができるとは、思いもよらなかったのだ。あまりのことに二人の孫が言葉を失ったのを見て気を良くした祖母は、マンボやチャチャチャといったラテンのステップを次から次へと繰り出した。若い頃は隣町に住んでいて、そこにあったダンスホールに夜な夜な繰り出したのだと、祖母ははにかんで言った。

 

 祖母はその後めったに踊らなかったが、かと言って全く踊らなかったわけではなかった。わたしはしばらく見なかったが、祖父母とおばで行ったシンガポール旅行で、ホテルのダンスホールでも、かつて磨きあげた自慢のステップを披露していたらしい。日本人じゃないみたいだった、とおばは言っていた。シンガポールにいてなお、祖母はその華麗なステップで、ダンスホールに馴染んでいたようだ。

 

 祖母はどこか器用で、暮らしを彩る芸術的なセンスみたいなものを持っていた。蔦谷喜一風の絵をボールペンでささっと描く。リカちゃん人形に祖母の寝間着とおそろいの稲穂柄のドレスを着せる。朝十時にはきまって牛乳を出してくれた。ごはんは美味しかったし、掃除も行き届いていた。ただ、母親からの印象は少し違っているようで、

「高校生の頃、お弁当箱をあけたら、おかずが全部いちごだったことがあったの。しょうがないから蓋でかくして食べたわ」

 他にも、ある日学校から帰ると前触れもなく家にエレクトーンがあり、習うことになったという話も教えてくれた。祖母は天然というか、エキセントリックの度を超えていて、どこか狂気を感じさせるようなエピソードのある人だ。

 

 近頃、そんな祖母の記憶が怪しい。普通に会話しているぶんには問題がなく見えるのだが、近い将来の予定を覚えていられなくなった。昔から物忘れはあったが、天然とかエキセントリックという言葉では片付けられなくなった。

 

 例えば最近こんなことがあった。わたしの父が高校の同窓会に出席することになった。父の母校は父の実家よりも母の実家のほうに近いので、父は同窓会の日、母の実家に泊まることになった。母が祖母に事前に電話をしておいた。当日、同窓会を終えた父が母の実家に行った。祖父母の驚いた顔。全く聞き覚えがないという。とりあえずその日はそのまま泊まることができたのでよかったが、双方に釈然としない気持ちが残った。祖父母はもう何年も、予定は決まった時点で居間に飾られた大きなカレンダーに書き入れていたはずだった。しかしその日の予定は真っ白だった。

 

 祖父母は二人とも億劫がってあまり外出したがらない。祖父は心臓が悪く、祖母は腰を痛めているからだ。だがある日、みんなで日本ハムファイターズの試合について話をしていた時、祖母が行ってみたいと言った。母とおばは張り切って、チケットも予約をして、後日祖母に伝えた。しかし祖母は、行きたいなんてことを言った覚えはないと言う。確かに言ったと伝えても、祖母はそもそも日本ハムファイターズの話をしたことすら覚えていない。自分は知らないと、怪訝な顔つきになってしまう。

 

 だから先日の帰省の折、わたしには特殊ミッションが与えられた。まずは母親とおばと妹と四人で、日本ハムファイターズの試合を観る。心ゆくまで楽しむ。そうして翌日、祖父母に会った時、いかに試合が楽しかったかを話す。そして以下の指定の文言をそれとなく尋ねるのだ。

「次にババちゃんが、みんなと野球を見に行くのは、いつだっけ?」

母はお願いねと、わたしから尋ねるよう繰り返し何度も念を押した。

 

 野球を見た翌日、祖父母の家に寄ってから祖父母と父とおばとファミレスに行った。祖父は免許を返納したこともあり昼からビールを注文し、寿司セットとともにぐびりとやった。祖母は寿司と蕎麦と茶碗蒸しのセットを頼んだ。わたしは寿司と小うどんのセットを注文した。小さな天ぷらもついていた。食べながら東京での仕事の話などをした。仕事のことを話してもわからないだろうと思い、細かいことは省いて事務職だと言った。そもそもわたし自身も自分の仕事のことをよくわかっていないから、これでいいのだ。

 

 祖母は何を話しても、そうかいうかいと笑い、もう食べられないからとお寿司をくれた。蕎麦をくれた。茶碗蒸しをくれた。比較的食べる人だったはずの祖父も、茶碗蒸しをくれた。好きだったはずのものが食べられなくなることが、二人の老いそのもののように思えた。わたしは気にするということをしたくなかったのでわざと喜んで食べた。わたしが喜んで食べることで、孫が喜ぶからあげるという構図が生まれる。そうすれば、二人がすでにあまり食べられなくなっていることから目を背けられるのではないかと思った。成長期をとうの昔に過ぎているわたしは、十分すぎるほど満腹した。

 

 食事が完全に終わるまでにわたしは、肝心のミッションの文言を話さなければならなかった。しかし切り出すことができない。わたしはほとほと弱った。じとりと嫌な汗をかいた。東京の夏の暑さの話をして、それに比べて北海道の夏はからっとしていて良いなどと言った。北海道のことを褒めた。ごはんも北海道のほうが美味しいよ。何もかもこっちのほうがいいよ。

 

 見かねたおばが助け船を出した。昨日札幌ドームに行ったこと。四人で並んで日本ハムファイターズ西武ライオンズ戦を観戦したこと。食い気味でわたしも加わった。始球式のゲストは大関豪栄道で、浴衣姿で投げたボールがキャッチャーの頭上を山なりに大きく越えたこと。試合開始早々に、怪我から復活しつつある大谷のタイムリーヒット。さらには中田の2ランホームラン。今シーズンでは珍しい、日本ハムファイターズの圧倒的な勝利。メンドーサのヒーローインタビュー。大きなディスプレイに映った彼の息子がどれだけ可愛らしかったか。勇んで助け船に乗り込んだので、少々船がぐらついたかもしれなかった。しかしそのまま本題に切り込んだ。

「今度みんなでドームに日ハム観にいくんだってね。いいね。楽しみだね。楽しんできてね。きっと楽しいね」

 祖母は少し怪訝な顔つきだった。祖父は寿司をつついていた。おばがフォローをいれた。札幌ドームは広くて、車イスのおばあちゃんも、揃いのユニフォームを着て応援していたと。わたしも楽しそうなその人を目にしていた。祖父母も楽しそうにしてほしいと思った。
祖母はそんなこと言ったかしら、と言った。その言葉は否定もされず宙に浮いた。あなたは再来月、札幌ドームに日本ハムファイターズを観ることになっていると、祖母にそれだけを告げてわたしの役目は終了した。

 

 きっと祖母の記憶は失われつつある。まだ初期段階であるとは思う。日常生活に不便をきたしているわけではないから。
 だがいずれ、祖母は全てを忘れてしまうのだろうか。サラギーナがダンスを踊る際に蹴散らされた砂粒のように、祖母の記憶はこぼれ落ちて、どこかへ行ってしまうのだろうか。

 

 祖母は苦労人だ。成人するまでに兄が二人亡くなっている。実家が豆腐屋で、同じ豆腐屋なら楽だろうと見合いをして、来てみれば嫁ぎ先の豆腐屋は廃業していた。夫は本州の土建屋にいて会うことも少なかった。姑は厳しかった。曽祖父と曽祖母は数年寝たきりになったから、祖母は毎日介護をしていた。祖母の父が亡くなって、祖母の弟と諍いになった。疎遠になって少しして、祖母の弟は癌で亡くなった。案内は来ず、祖母は弟の葬式に出られなかった。

 

 けれどもここ十年あまり、祖父母は毎年のように海外旅行に行っていた。中国にフランスにエジプト。一番話をよく聞いたのはハワイ。今までの苦労が報われたのだ。旅行の話をしている祖母は、心底楽しそうだった。
 異国の行く先々で、祖母は祖母の姉の遺骨を少しずつ撒いていた。いい話なのかそうでもないのか、今のわたしには判別がつかない。だがしかし、クフ王のピラミッドを前に砂漠で散骨する祖母を想像すると、わたしは心から好きだと思う。

 

 祖母は帰り際、ささげの煮物をどっさりとわたしに渡した。わたしの妹が食べたいと言っていたから作ったと言う。日本ハムファイターズを観に行く約束をしたその日に、妹がそう言ったのだ。その記憶は残ったんだなと思う。覚えていてくれてよかった。できることなら全て覚えていてほしいが、無理なら楽しかった思い出だけでもいい。まだまだこれからではないのか。

 

 わたしは祖母のダンスがまた見たい。キレのあるあのステップ。滑らかな身のこなし。八十年生きてきた祖母のダンスが、わたしは今とても見たい。